タジキスタンで会った人たち(その3)
タジキスタンの田舎で暮らしているロシア人女性です。
台所と居間兼寝室の二部屋だけのアパートで、もう1人のロシア人女性と2人で暮らしています。ソヴィエト連邦当時、多くのロシア人が住んでいたようですが、ソ連崩壊とその後の内戦でほとんど出でていってしまったとのこと。あえて現地に残ったのか、ロシアに身寄りがいなかったのか、それとも内戦が激しすぎて出られなかったのか。モスクワから来て、現地で看護師をしていたこの女性はいずれにせよ、ここに留まり続けました。
タジキスタンの農村での暮らしは厳しいですが、大家族と親戚が助け合って何とか暮らしています。身寄りのないこの女性は月1000円に満たない年金では足りず、市場に出かけ店から野菜などを恵んでもらって生活しているそうです。
部屋には若い女性の写真が。隣国ウズベキスタンに暮らす女性の娘だそうです。車で2日もあればたどり着く距離ですが、女性の厳しい暮らしを考えると、ウズベキスタンが遙か遠くにあるように感じます。娘の写真、十字架。「異国」の地で、細々と自らの暮らしを守り、生涯を終えようとしているその姿からは多くを考えさせられました。
私たちのNGOは女性にジャガイモ20キロを渡しました。地元の障害者互助組織で収穫したものです。確かに食べ物は暮らしを支えますし、この女性に渡したことも意味があったと思います。女性も私の手を取って「ありがとう」と伝えてくれました。ですが、何か物足りないというか、引っかかるのです。では、この女性には、ウズベキスタンまでの交通費を渡し、娘と暮らすための手はずを整えればよかったのか?
NGOや国連が手がけるべき「援助」は、道で転んだお年寄りに手をさしのべたり、街角で道に迷った人に案内をするのとは違うと、この仕事を始めて気づきました。「子どもが転んだとき、すぐに手を差し出さない方がいい」とする考え方に近いと私は考えます。学校で、問題が分からないからといって、やり方まですべて教えてもらった子どもが自立できるでしょうか?
すごく時間がかかりますし、女性が生きているうちは変わらないでしょう。ですが、女性がそのような人生を歩まざるを得なかった社会が変わらない限り、第二、第三の女性を生み出すだけです。社会が変わっていくこと、そのために忍耐強くあること、それが「援助」のために大切だと思います。
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